ノウミソぱんぱかぱん
アタマからっぽについて。
最近ポジティブな直観力が落ちてるような気がする。ネガの方は、人生の経験値が増えるにつれ、磨かれていっている気がするのによ。
そんな中、暇つぶしに、スマホで LINEニュースから飛んだコラムを見ていて目に留まった言葉。
何も考えない、ぼーっとするだけのスキマ時間が足りてないのではないか?
わーたしかにその通りだ!と思ったので、そのことについてもう少し考えてみようと思ったの。
1日を振り返ってみると
起きて、出勤準備。この間慌ただしすぎてぼーっとするなど不可能。
出勤中はスマホで情報収集。本読むときもある。
仕事が始まれば、ぼーっとするタイミングなどなくあっという間に時間が過ぎ。
休憩中も、ずっとスマホ見てる。
帰りも、行きと同じくスマホの虜で、 LINEしたりSNS見たりといったプライベートな楽しみ方に切り替わってるけど、ぼーっとはしてない。
家でも、テレビ見たり本読んだり、お風呂でもトイレでもずっと何かを見てるし考えているんだよね。ほんと寝落ちする直前まで。
自分が極端である自覚はないでもないけど、でも大多数の人は概ねそんな生活を送っていて、ぼんやりしたり、なにも考えないことを許容したりするような、スキマの時間をつくることができていないんじゃないかな。
欧米では健康習慣のひとつに「瞑想」が一般的になってきてるみたいだけど、こういう時代背景だからこそホントに必要なのかもね。と。
寝ないで、10分ぼーっとする…って、難しいなぁ。
ヨガとか、ジョギングとか、水泳とか、スマホが触れない環境の中で反復運動をするといいのかな。
物語中毒で、ずっとなにかしらのコンテンツを享受し続けてただひたすらに消費しているから、自分から何かを産み出す能力が劣化しているのかもしれない…。
そんな危機感もあってアウトプットの一つとして始めたブログ。
ぼーっとする というには考えることが多すぎるのだけども。自分の内面と向き合うという意味では、ただぼんやりするよりはむしろ必要なのかもしれないな?けどコンテンツを享受してるときのほうがむしろなにも考えてないな?どうなんだろ。このへん。
直観力がホントにこれで復活するかはわからないけど、こんな記事を書くくらいには心に響いたから、とりあえず"あたまからっぽたいむ"をどこかで設けてみる…まずは5分から。
懐古の邂逅の回顧
ひさびさに読んだ本の話。
西尾維新著「ヴェールドマン仮説」
もう100冊なんですって。
学生の頃にクビキリシリーズから読み始めてしばらくハマって読んだなぁ。
しばらく遠のいていたけど、本屋の平積みコーナーにあって、懐かしくなって思わず。
相変わらずの文体と、独特のネーミングがすごく懐かしく感じた。西尾維新どっぷり!て感じ。
家族全員名探偵なんだけど、主人公は名探偵ではない普通のぼく。
取り巻く環境や、すごい才能を持つ登場人物に比べ、主人公には取り立てた特徴があるわけでもないのに、我の強い周囲の色々から愛され?物語を動かしてしまう、という形式は、まさに西尾維新の王道スタイルと言っていいのではないかしら?
ひさびさに読むとその王道感がおもしろく安心して最後まで一気に読み進めることに。
ずっと一人称で、回りくどくて説明過剰な感じの文体も、嫌いじゃないのよね。
ライトにミステリたい気分のときにおすすめの一冊でした。
副作用として、コッラディーニの彫刻が見たくなるのでお気をつけあれ。
散文、十二国記より
読了!!
からの、もうすでに続きが待ち遠しい。
今回も発売日、平積みダァ。
以下、感想なので、まだ読んでない方は、読み終わってから目を通されたし。てか、読んでないと多分全く意味わかんないと思われる。
もどかしく辛い1.2巻を乗り越え。待ち。
漸く、ことが進み始め、スピード感のある3巻。
そしてクライマックスに向け、物事が集約されていく4巻。
丁寧に丁寧に紡がれた前半があっての、後半のカタルシス、そして無常の痛感なのですが。
やっぱり辛かったなぁ…。
今回は、全体通して、己が領分と役割というものをすごく突きつけられた感覚があった。
民は、民として。兵は、兵としての。
王も、単なる役割なんだよね。
そして、麒麟。
唯一無二の存在であり、それを逆手にとる泰麒の勁さ。
天に問うとかそういう大義のない興味と
嫉妬心と羨望による簒奪が組み合わさった末の、悲劇、なのか。
前者は仄めかされる程度で、琅燦のことはよくわからずに終わりを迎えてしまった。
短編などで、解かれるときはくるのだろうか。
阿選の方がよほど理解できる。
覗き見をしている身としては、驍宗と阿選の内面の違いをみて、阿選が王の器ではないと知っているけど。当事者であること、それによる視野の狭さには、同情も感じるところ。
お互い、相手を意識しているのは同じなのに、視線に自己の内面が投影されている。こういう描写はほんとに小野不由美主上の素晴らしいところだと思う。
余談だけど、泰の民の持つ性質が、1番強く出ている描写や、それを驍宗だけは知っている描写も、愛を感じたな。なんともじんわりくる、感動だった。
あと、人と、獣の、それぞれの献身。
麾下も、騎獣も、哀しいくらいの忠誠を見せる。
人は、考え過ぎてしまうから。
いくら忠心があろうと、自分自身のことすら疑ってしまう。だから、阿選はハトを選んでしまったのでしょう。
獣は純粋だね。ほんとに悲しかった。
ここばかりは、お恨み申し上げる…。
書き散らした感じだけど、読み終えてしばらく経っても、まとまる気配がないや。
みなさまの感想を拝見して、また思うことがあれば書こうかなと、ここに残しておく。
多様性とイノベーションの原点
虫展。最終日に滑り込みで行けた!
とても面白かった!期待以上の充実っぷりで、1時間では全然足りず、二回行ったほど。
かっこよー!
自然の造形美というか、進化の過程というか、生き物の必死さとか切実さ、そして少しの間抜けさが垣間見える。
カミキリムシの種類と進化をチャートにまとめたものなど、もう、果てしないほどひたすらに細分化されていっているし、最初の分岐で分かれた端と端は、全然違うカタチなの。
生きやすさを探り続ける、昆虫の凄さを見せつけられる。
世代交代も早いから、進化がすごい。イノベーティブの塊やぞ。
飛び立つ瞬間のてんとう虫の模型も、よかったな。
翅が広がる、その原理を理解することができた。知らないよね意外と。
様々な昆虫が飛び立つ様子や跳ぶ瞬間を、スロー再生している動画も、とてもよかった。何時間でも見ることができると思った。なんと機能的で、多種多様なのか。カッコ良いし、神秘的。
宮崎駿監督の、ナウシカに出てくる腐海の蟲たちの描写のリアルさや、蟲の形から生まれたガンシップの設計に思い至り、感動でくらくらした。
知らないよねでいうと、さなぎの中身。
ふよふよの青虫が、硬い衣に閉じこもり、次に出てきたときにはふさっと翅が生えているのよ。
中で何が起きてるの?メタモルフォーゼって結局なんなのよーという、長年の不思議をアニメーションで表現している作品があって、これがどのくらいリアルなのかはわからないけど、すごく興味深かった。
青虫が蝶に、蜂の子が蜂に、幼虫がカブトムシになるさまが描かれたアニメーションのメタモルフォーゼに、よくぞやってくれました賞を贈りたい。
ずっと見てられるでいうと、カブトムシの起き上がり実験も忘れがたい。
つるつるしたコンクリの床に、裏返しに置かれた、1匹のカブトムシ。
ティッシュや、ビニール袋など、横にそっと置かれるさまざまなお助け?アイテムを利用して、彼が、無事に起き上がれるか、というのをひたすら見守る実験動画なのです。
うまく肢を引っ掛けて起き上がれる素材もあれば、滑って助けにならない素材もあれば、という感じで、ひとつひとつのアイテム毎に、必死で起き上がろうとするカブトムシの姿に、なんだかこう、応援したくなるというか、ちょっとじーんとするんだよね。。
ひっくり返された姿を見るたびに、心がぎゅっとするという…。
普段の生活では、小さすぎて気にも留めない昆虫がこんなにカッコ良い造形をしていたの!という発見もあったし、
一生懸命、生きるために生きて、繋ぐために変わり続ける姿に、おおいに感銘をうけ、発見の面白さに改めて気づけた展示会だった。
虫捕り少女だったわたしも、大人になって触れ合いがなくなるにつれ、たまの出会いにはギョッとするようになってしまった…。
今回の機会を経て、改めて虫愛づる気持ちが、少し戻ってきたような気はするけど、やっぱり家の中で出会ったら、きゃ!て思ってしまうんだろな。
最後のヒトの脳の展示を見て、そんな身勝手な「人間」というものに想いを馳せながら、帰途についたのでした。
里帰りするもふたち
TOBICHIで開催中の『ぬいぐるみの里帰り』展。
行ってきたよー。
ボリス雑貨店で、水島ひねさんの海の生き物とか、きのことか女の子のぬいぐるみを見たあとに。
ギャップがすごい!
Plum's のくまさんず。
会場にずらりと並ぶ、里帰りしてきたぬいぐるみたち。なんだか少しのノスタルジーと、幸せを感じる展示だった。
里帰りを募ったらこれだけ集まったということが、大事に大事にされてる証だよねぇ、と思って。
●キッチュなピエロくま
●みっちりシロクマず
●ほろりんナミダパンダ
いいなぁ。
Steiffのテディベアを、子どもが生まれた年に買うとか、すごい憧れる。
私も、同じ歳の相棒がいたら、嬉しかっただろうなぁ。。当時、ぬいぐるみに興味ない子どもだったから、そういう存在がないんだよねー。少し残念。
次の節目の歳になったら自分のために買うと決めた。なう。
しかもドイツで買ってやる!と思ってるけど、忘れそう 笑
最後に、数点、抽選でぬいぐるみ販売してたので。
表情が笑ってるみたいで、素敵だった猫背ちゃんと
しゅとした佇まいが素敵だったおしゃれさんに
抽選申し込んで帰ってきたよ。
そして、帰り道に、タイミングよく!
オーナーの糸井重里さん夫妻が、愛犬ブイコちゃんを連れて遊びにきたのに遭遇!!嬉!!
たぶん、ブイヨンだけど、ブイコちゃんの参考画像
画面の中でしかみない人やものをリアルで見ると感動するよねー。こういう体験が大事だと改めて思ったよ。
何度も写真でみたことあっても、自分の目で、見たい。そのときの空気とか匂いとか暑さとか、天気とかトラブルとか、そういうの全部ひっくるめて、体験なんだわ。
ということで、まだちっちゃいブイコちゃんが、しっぽふりふり、笑顔で歩いてたのがすごくほっこりして、今日の幸せな思い出を締めてくれました。
のに!
帰り道のGoogle先生が、なぜか青山墓地の真ん中を突っ切れと指示するものだから。。
くらい!ぶきみ!ひとり!
って思ってたら、逆方向から来た青年たちが同じ指示をされたらしく、
「え、いや!絶対無理!俺やだよーー」て
叫んでたので、冷静さを取り戻し、先陣切ってやりました。
おねぇさんについておいで!
ひとりでも怖がらずに進んでるよ、さぁ!という気持ちで。
ちゃんとうしろを着いてきてたよ。
心なしか、肩が凝っているので、違うのもついてきたのかな。塩撒いたほうがいいかもしれないねー…。がお。
そんな、1日でしたん。
優雅な秘密、そのいち。
今日は朝から猫カフェ行って、もふもふを愛でたあと、『エドワード・ゴーリーの優雅な秘密展』 へ。
●うろんな客
こんなにみっちり、ゴーリーと向き合うの初めてだけど、原画の数も多かったし、スケッチもいくつかあったし、作家のコメントや人となりがわかる説明も散りばめてあって、充実したよい展示だったー!
不気味。不安。無意味。
そんなものを散文にして、構図を切り取ったイラストに添える。
無表情なのに、ユーモアや悲哀を感じさせる、画面の向こうの住民たち。
意外とイラストは小さく、絵本と同程度のサイズ。つまり、細いペンでかなり密度濃く描かれているということ。
暗さの中の温かみ、シニカルさとユーモア。
繊細な毒。素直な愛。
大好きなヒグチユウコさんとの共通点を画風だけじゃない部分でも感じた気がする。
ゴーリーの方がいじわるで厭世的かな?
でもおちゃめなとこは共通してるな。とか。
うん。おもしろかった。
『うろんな客』と、不思議生物が好きすぎて、買っちゃったお土産たち。
タロットカード?と書いてあったけど、使い方を知らぬままに買ってしまったぴかぴかの長いカード。後悔はない!なにか、考えよう。
ペンケースも嬉しいな。転々と、うろんなあいつがいる。
帰りにボリス雑貨店に寄ったので、ヒグチユウコ著 新作絵本『ラブレター』も混じっているよ。
ゴーリーの絵本ももっと揃えたいなぁ。。
長くなったので、TOBICHIの『ぬいぐるみの里帰り展』の話はまた次の記事に。
東京でしたいこと、沢山ありすぎて時間足りないやー。
●東京ミッドタウン:虫展*明日まで
●ポーラ美術館:シャガール作品展*明日まで
今年は行きたいやつが豊作ですな!
うーん!間に合うか…。
明日の気分で見たいやつから行こう。
いつか限界がくるの。だけど。
またもや、ゆりちゃんのお話から。
アナザースカイというテレビ番組で、ゆりちゃんがパリを選んでいたのですが、私もパリの雰囲気が大好きで。
レペットで靴を買ったりとか、アンティーク市に行ったりとか、画家のアトリエ、生家を訪れたりとか、ゆりちゃんと、好きの共通点がたくさんあってすごくすごーく嬉しかったのでした。
お買い物大好きなとこも、その理由も、共感しかなかった。
そうそう、お金は使ってこそなんだよー。
お金があってもわくわくはしなくて、
お金が好きなものに変えられるからこそわくわくするの。
好きなものと出会ったときの、その感覚が、大事で。それをお金にあんまり邪魔されたくないのよな。
必要か必要じゃないか、ではあまり判断したくなく。欲しいか欲しくないか。好きかそうでもないか。
左に針が触れたら、手に入れたくなるのです。
もちろん原資に限りはあるのだけど。。
要るか要らないかだけで決めてたら、買い物って楽しくないんだよねーっておもって。だってほとんど、無駄なものというか。生活必需品ではないわけです。
で、こないだ、仕事でセミナーセッションを聞きに行ったときのこと。元任天堂の方と、YAMAPの方と、東京茶寮の方が、生活必需品じゃないのにどうしてこれをやってるのかという話をしてて、それがなんだか思い出されたのです。
必要だから選ぶ、ではなく、好きだから選ぶ時代。
個人の「好き」が多様化してるからこそ、提供側も「好き」をもっと発現して、巻き込んでいくスタイルが必要なんだよねーと話していて、納得でした。
大きい企業になるほど、難しいなと思うこともあるけどね。
でも自分が熱狂してないと、周りの応援も得られないというのは、なんかわかるなぁと。
ゆりちゃんのことがこんなに好きなのも、ゆりちゃんが、自分の「好き」をずっと表現してて、そこに共感したり憧れたりしてるからなんだよね。
芸能人への憧れも、手が届かない憧れではなくて、隣に住んでる感じの憧れに変わってきているし。
そんな真面目なことをぽわぽわと思いながら、帰ってきたのでした。
毎日好きなものが増えていくこの頃。
だけど
好きなひとやものが多すぎて
見放されてしまいそうだ
林檎ちゃんのうた『月に負け犬』の一節。
この感じも、なんか、わかるんだよね。ふしぎだ。